萎縮効果をもたらす決定

 最高裁大法廷は、岡口基一裁判官のツイッター投稿が「品位を辱める行状」にあたるとして、同裁判官を戒告処分にしました。私は、以前、申立てがなされた際、裁判所は何て狭量なのだろうかと思いながら、このコーナーで少し書いたことがあります。しかし、今回、裁判所のウェブサイトに一般事件の判例とともに掲載された決定の全文を読んで、思ったよりも事態は深刻だと感じました。もちろん、深刻な問題を抱えているのは岡口裁判官ではなく、裁判所という組織のほうです。

 今回の決定について、世の中の人々が、例えば、あの裁判官はやり過ぎだとか、変な写真を載せて趣味が悪いといった感想を抱くことは自由です。日経新聞のコラム欄にも、その昔もっと立派な裁判官がいた、それに比べて今回はどうだろう、という趣旨のどちらかと言えば岡口裁判官の言動に懐疑的なコメントが見受けられました。

 他方、私などは、ツイッターというものは、リアルタイムで限られた文字数のコメントを発信するツールに過ぎないのだから、報道で接した情報をもとに、適宜つぶやけばいいじゃないかと考えています。それは一般人だろうが、弁護士だろうが、裁判官だろうが、アメリカの大統領だろうが、大して変わらないと思います。プライバシーを暴いたり犯罪行為に及ぶような表現は許されませんが、余程のものでなければ制限してはならないと考えています。

 私は、この件については、当初から、たかだかツイッターで記事を紹介した程度のことで、なぜこんな大問題になっているんだろうと根本的な疑問を抱いていました。そして、今回の決定を読んでも、その疑問は全く解消されませんでした。なぜならば、この決定は、裁判官にも表現の自由は保障されると前置きしつつも、それが対立する利益との関係でどのような範囲で保障されるのか、基準を全く示していないからです。この決定は、岡口裁判官の表現行為を「表現の自由として裁判官に許容される限度を逸脱したものといわざるを得ない」と一刀両断にしているだけです。我々法律家は、ある問題について考えを述べたり判断したりする際、まず証拠に基づいて事実を認定し、法律を解釈して基準を示した上で、その事件にあてはめて結論を導くようトレーニングを積んできました。その過程を経ずに結論に飛びつくような主張には説得力がなく、裁判であれば負けるでしょうし、司法試験であれば不合格となるでしょう。

 ところが、今回の決定は、それをやってしまったとしか思えないのです。最高裁判所大法廷という司法の頂点にある組織がまさかこんな決定を出すとは、と目を疑うような内容です。

 今回の決定も最高裁による判断ですから、例えば「品位」が問われる当事者に関する事件について、先例として用いられることがあるかも知れません。今後、実務に一体どのような影響を与えるのか、私にはさっぱり分かりません。ただ、今まで以上に世の裁判官は表現行為を萎縮するだろうということは、容易に想像できます。

 ささやかながらSNSに発信している裁判官も少なくありません。そのような裁判官達は、今回の決定をどのように受け止めているのでしょうか。今後、レストランの評価ができなくなるかも知れません。「あの店、思ったより大したことなかったな」等と書き込んで、店や店の客の感情を傷つけるかも知れないのですから。公的私的を問わず会合に参加して気軽に発言することができなくなるかも知れません。自分の発言を他人がどのように受け止め、その他人がタグ付きでSNSに拡散するかも知れないのですから。人前で歌うとき歌詞に気をつけなければならなくなるかも知れません。歌に込められたメッセージを他人がどう受け止め、その他人が自分に対しいつ否定的な感情を抱くか分からないからです。

 大げさと思われるかも知れませんが、大げさな反響まで考えて表現を差し控えてしまうのが萎縮効果というものです。誰がどこで自分の表現行為を否定的に捉えているか分からない。それによって自分がどのような不利益を被るか分からない。戒告とまではいかないまでも、出世に響くかも知れない。だから、表現するのは止めておこう、となるわけです。

 このような萎縮効果が蔓延すれば、裁判官という職業は、意見表明を避けるという偏った特性をもつ人々のみで構成されることになるでしょう。今回の件、分限裁判などという乱暴なやり方ではなく、裁判官の表現の自由について、外部の識者を交えてオープンな議論を重ねれば良かったのに、と残念に思います。

 ともあれ、岡口裁判官には申し訳ないのですが、自分は、誰の顔色も窺うことなく、自由に物を書ける弁護士で良かったと実感しています。

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