死刑執行を考える

 今日、オウム真理教元代表と教団幹部計7名の死刑が執行されました。死刑に関しては様々な意見がありますが、ここでは死刑の持つ野蛮さについて考えたいと思います。

 日本では、ときどき死刑が執行され、その都度ニュースになりますが、今日の執行は、いつもとちょっと違っていました。朝、元代表が執行されたという一報があった後、他に6名が執行される見通しというニュースが続きました。つまり、今は執行されていないが間もなく執行されるということを多くの人が知ったわけです。なぜこのようなニュースになったのか、実情は知りませんが、私の記憶では、少なくともここ20年間くらいの日本における死刑執行では初めてのケースだったのではないかと思います。その後、ネットニュースで確認すると、時間が経過するにつれ、徐々に執行した人数が増えていき、最終的には予定どおり7名となりました。私は観ていませんでしたが、ライブ中継のように執行の過程を報道したテレビ局もあったようです。

 いつもの執行は、直後とはいえ過去の出来事として報道されるため、報道に接したとき、死刑に思いを巡らせて終わりとなることが多かったと思います。ところが、今回の執行では、これから間もなく執行されるという、何ともいえない間、言い換えれば、民衆が執行の瞬間を待っているかのような気味の悪さ、あるいは野蛮さを垣間見たような気がします。これから執行されるという言葉だけでも、これほどのインパクトなのですから、もし、執行の光景がテレビやYouTubeなどでライブ中継されていたら、私たちは一体どのような心境を抱くのでしょうか。

 今回の報道の仕方、あるいは法務省サイドからの情報提供に対しては批判もあるようですが、まだまだ不十分とはいえ、私には、いみじくも情報公開の一つのようにも見えました。この情報公開によって、死刑執行とは、まさにこの瞬間、生きている人の生命を強制的に断ち切ることであると実感させられ、その過程に何とも言えない野蛮さを感じました。思えば、前近代社会においては、むしろ死刑執行は見せしめのため民衆に公開するのが通常であり、その野蛮さを近代社会が克服していったという歴史があります。しかし、見せしめかどうかはともかく、死刑執行がどのようなものかを詳しく知ることは、死刑を考える上で必須だと思います。例えば、日本においては残虐な刑罰にはあたらないとされる絞首刑ですが、実は、首がちぎれたり、速やかに絶命しなかったり、かなり困難な状況に直面することがあると言われています。いずれにせよ、日本における死刑執行は、あまりにも秘密主義でした。

 ところで、G8の中で死刑を執行しているのは日本とアメリカ合衆国だけです。ただし、アメリカも州によっては死刑は廃止されており、長年、執行がされていない州もあります。従って、G8の中で国家として統一的に死刑を執行しているのは日本だけということになります。なお、2018FIFAワールドカップの出場国32カ国でみると、死刑廃止国又は事実上の廃止国(長期間執行がない等)は27カ国、存置国は5カ国(日本、イラン、サウジアラビア、エジプト、ナイジェリア)です。ということは、決勝トーナメントに進んだ16カ国中、死刑存置国は日本だけということになります。サッカーと死刑とは直接関係ありませんが、国際情勢を知り、少なくとも日本は外国からどのように見えているかという視点は大切だと思います。

 アメリカの中で、代表的な死刑執行州はテキサスです。しかし、テキサスでは、日本とは異なり、死刑執行のスケジュールまでウェブサイトで公開され、情報公開が進んでいます。死刑執行をより現実的な問題として受け止めることができ、参考になります。死刑の問題は、机上の空論では議論し尽くせないものがあります。
Texas Department of Criminal Justice – Death Row Information – Scheduled Executions

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