死刑と広い意味での誤判

 予想されていたことですが、7月6日に続いて、今日、オウム真理教事件で死刑判決が確定した6名の執行がありました。前回は、死刑の持つ野蛮さについて考えましたが、今回は広い意味での誤判について考えてみます。

 私自身は、これまで死刑判決が予想された事件の弁護を4件担当しましたが、結果はいずれも無期懲役でした。従って、自分が担当した事件について、私は法廷で死刑判決を聞いたことがありません。死刑囚の弁護は、再審事件だけです。

 しかし、思い返せば、4件とも死刑判決の可能性は確かにありました。もちろん、私の弁護活動だけで死刑が回避されたなどと思い上がった考えは全くありません。長い裁判の中、複合的な要因が重なり、無期懲役という結論に至ったものばかりです。

 ある事件は、たまたま裁判官との相性が良く、弁護人の立場としては、裁判官に恵まれていました。ある事件は、たまたま事件関係者の協力を得ることができ、紙一重で死刑が回避されたように見えました。ある事件は、たまたま共犯者の弁護人が奮闘し、それに引きづられるように、刑の均衡上、死刑が回避されたように見えました。ある事件は、捜査段階の黙秘によって、公判で実態に見合った事実関係が浮き彫りとなり、第一印象の酷い人物像はかなり緩和され、それが死刑にならなかったと言えるかも知れません。

 しかし、全国を見渡すと、私のような経験をした弁護士は少数派で、似たような事件で死刑になっている場合も少なくないようです。死刑か無期かの境界線は、実は非常に曖昧です。

 誤判というと、犯人性(例えば被告人が犯人かどうかの争い)や事件性(例えば事件なのか単なる事故なのかの争い)ばかりが注目されます。名張毒ぶどう酒事件や袴田事件など、冤罪と言われる再審事件は、その典型例です。しかし、そのような冤罪事件だけでなく、量刑に影響を与える事実関係や評価に争いのある事件も非常に重要です。責任能力に争いのある事件もあります。いや、むしろ、犯人性や事件性に争いのある事件よりも、量刑が問題になる事件のほうが、刑事事件の大きな部分を占めています。そして、私は、このような量刑に関する裁判の過ちも、広い意味での誤判と考えます。

 全部で13人もの死刑が確定したオウムの死刑囚の中には、再審請求中だった方も多く含まれていたと聞きます。私は、弁護に関わったわけではないので、感想程度のことしか言えませんが、果たして、あの中に広い意味での誤判はなかったのだろうかと、大きな疑問が生じています。

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