「戦後」から「戦前」へ(集団的自衛権の行使容認)

 2014年7月1日は、日本が大きな転換点を迎えた日として、歴史に刻まれることでしょう。本日、安倍内閣は、集団的自衛権の行使を容認する憲法解釈の変更について閣議決定しました。このまま行けば、今後、法案の提出、可決と続くはずです。

 今回の閣議決定には2つの大きな意味があります。1つは、集団的自衛権の名の下、日本が米国の紛争に介入する可能性が現実味を帯びてきたことです。米国は、第二次世界大戦後も世界各地で戦争を繰り返してきました。その現実は意外と近いうちにやってくるかも知れません。もし日本が他国間の紛争に介入したとして、その代償は何でしょうか。21世紀の現在、第二次世界大戦のように国家間が全面的に武力衝突する事態は、あまり現実味がありません。それよりもむしろ、国内、特に都市部において、テロの発生する危険が格段に高まることでしょう。ここでいうテロとは、自爆テロ、誘拐、立てこもり等の生命・身体に対する攻撃に限らず、サイバーテロも含まれます。

 もう1つは、閣議決定という方法で憲法の解釈を変更したことです。日本は憲法を掲げて立憲主義を貫いてきた国です。立憲主義とは、憲法で権力を縛り、国家から国民の自由・権利を守るという考え方です。従って、憲法をどのように解釈するかは、国民の自由・権利にとって大変重要な問題です。だからこそ、多くの人達が何十年も議論を積み重ねた結果、現在の憲法の下では集団的自衛権の行使は容認できないという解釈に落ち着いていたのです。ところが、ときの内閣(国家)がこの解釈を都合よく変更できるとしたら、もはや立憲主義は成り立たず、憲法の破壊に等しいといえます。今の日本は、まるでクーデターが起きたような状態だと思います。

 中国や韓国との領土問題、北朝鮮の動向からすれば、米国と手を組んで日本を守ってもらうのはやむを得ないという主張があります。しかし、なぜ米国が日本の味方になって守ってくれると言い切れるのでしょうか。米国も、他の国と同じように、自国の安全や経済的利益を絶対的に優先にし、他国にはあまり関心がないと考えるのが自然です。今回「米国だけは日本のことを理解してくれる」というセンチメンタルな主張が繰り返されるたびに、強い違和感を覚えます。

 中国や韓国が調子に乗っている、日本が甘く見られている、といった声も確かに聞こえてきます。しかし、仮にそうであるからと言って、武力で威嚇すればよいのでしょうか。最前線に立つのは若者です。万一戦闘ともなれば、スポーツやゲームとは異なり、実際に血の匂いが立ちこめ、死体が散乱する地獄絵図が現れます。私たちは、本当にそのような光景に立ち会う「覚悟」があるのでしょうか。むしろ、地獄絵図を見ないように、平和的な解決に向けて知恵を絞るべきではないでしょうか。

 集団的自衛権に消極的な意見に対しては、よく「平和ボケ」という言葉が使われます。しかし、それは逆だと思います。身をもって戦争を体験した世代の方々は、集団的自衛権に消極的な意見が多いように見受けられますが、この方々を「平和ボケ」とは呼ばないはずです。むしろ、戦争をリアルにイメージせず勇ましい意見だけを述べているほうが、よほど「平和ボケ」ではないでしょうか。

 今日、1945年以来続いてきた平和な「戦後」が終わり、戦争に向かっていく「戦前」が始まったように感じます。しかし、まだ引き返すことは可能です。私たちは、もう一度、考え直す必要があると思います。

目次