死刑と原発に共通するもの

 今年は1992年以来、19年ぶりに死刑の執行がゼロの年になりました。他方、死刑が確定した人は129人に増え、1949年以降の年末統計の最多を更新したそうです。世論調査によれば、国民の大多数は死刑制度を支持しているそうなので、死刑執行ゼロというのは、あまり歓迎されないニュースなのかも知れません。

 しかし、私は、死刑の是非について尋ねられたとき、いつも廃止すべきであると答えています。弁護人として刑事事件に携わってきた中で、いつも人の営みの不確かさを痛感させられるからです。

 一見、何の疑問もなさそうな事件でも、様々な不確かさが生じます。例えば、ある凶悪事件が発生した場合、捜査を担当する警察官や検察官は、寝る間も惜しんで取調べを行い、証拠を集めます。彼ら彼女らは、皆、献身的に仕事に取り組んでおり、私も頭の下がる思いです。しかし、被疑者をはじめ、関係者が取調官に対して真実を語っていると本当に言えるのでしょうか。また、ある証拠物を発見したとき、それがある事実を裏づけていると本当に言えるのでしょうか。弁護人も裁判所も同じです。被疑者・被告人は、自分達に対して本当に真実を語っているのでしょうか。検察官が開示した証拠の中に、見落としている物がないと本当に言えるのでしょうか。他にも重要な証拠はないのでしょうか。

 裁判は、過去に発生した事件を再現する所ではありません。限られた時間内に限られた証拠を用いて、裁判という紛争(揉め事)をひとまず決着させる手続です。紛争を決着させることは、社会を形成する上で大切なことです。現代社会にとって裁判は必要不可欠です。しかし、そこには必ず、真実とのズレ、間違いが生じます。言い換えれば、裁判は常に間違いとセットで存在する不確かなシステムなのです。大切なのは、関係者がその間違いを謙虚に受け止め、より良いシステムを作っていくというプロセスです。そのようにして間違いは次に生かされるのです。

 ところが、死刑は間違いを許さない刑罰です。一度間違えて命を奪ってしまうと取り返しがつかないからです。このことは、犯人かどうかが争点になっている事件だけでなく、死刑か無期懲役かが争点になっている事件でも同じです。私も、死刑か無期懲役かが争点になった事件の弁護をしたことがありますが、死刑と無期懲役を区別する境界線は、非常に不安定で不確かなものであると実感しました。

 取り返しがつかないという点では、原発も死刑と共通の問題を抱えていると思います。福島第一原発の事故以来、盛んに原発の是非が問われています。私は、原発についても廃止すべきであると考えています。原発事故は起きてしまうと取り返しがつかないからです。

 人の作ったシステムに間違いは付き物です。どの分野においても、人はシステムに間違いが生じることを素直に認め、その間違いを修正しながら、より良いシステムを築き上げてきました。しかし、そのことは間違いが何とか取り返しのつくレベルである場合にのみ許容されることです。取り返しのつかない間違いを含む場合、そのシステムに間違いと修正の繰り返しというプロセスを盛り込めなくなるからです。他方、死刑や原発は、人の作るシステムには取り返しのつかない間違いは生じないということを前提に成り立っています。しかし、私は、そのように人の営みを過信したシステムは存在すべきではないと考えます。

 あの福島第一原発の事故に直面した結果、今、世の中には原発を廃止すべきであるという意見が多いようです。そうであるならば、死刑制度に関する世論も将来的には変わり得る可能性があります。しかし、そのためには、まず裁判の現状を少しでも多くの人に知ってもらう必要があると思います。

 2011年を終えるにあたって、このようなことを考えました。

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