裁判所が再審を扱うことの限界

 本日、袴田事件の即時抗告審において、東京高裁(大島隆明裁判長)は、静岡地裁の再審開始決定を取り消し、再審請求を棄却しました。決定書を一読しただけで、感想めいたことしか言えませんが、あまりにも酷い決定だったので、珍しく決定当日、何か言わなければという心境になりました。

 今日の決定のどこが酷いかと言えば、証拠の「孤立評価」です。昨年の名張毒ぶどう酒事件の名古屋高裁決定もそうでしたが、裁判所は、要するに、弁護人が提出した新証拠を個別に取り上げ、それだけで無罪心証まで抱かせない限り再審は開始しないという態度を変えません。今回はDNA鑑定が注目されましたが、新証拠はそれだけではありませんでした。みそタンク内から発見された衣類に関連する実験や、取り調べ状況の録音テープなど新証拠は多岐にわたります。もともと、疑問が多いとされる確定審までの旧証拠とDNA鑑定を中心とした新証拠をあわせ、総合的に事実認定を見直した場合、果たして、今回のような棄却という結論になったでしょうか。

 かつて、再審請求審においては、新証拠を「孤立評価」すればよいという考えと、新証拠と旧証拠を「総合評価」しなければならないという考えがありました。この対立は、1975年、疑わしきは被告人の利益という刑事裁判における鉄則は再審制度にも適用されるとした白鳥決定によって、「総合評価」を支持することで決着したはずでした。ところが、その後も裁判所の大多数は、弁護人が提出した新証拠の証拠価値を個別に検討し、単品で裁判官が想定するところのハードルを越えられた新証拠だけが総合評価への参加資格を得るという判断方法をとっているように見えます(これを「二段階説」とか「限定的再評価説」などと言いますが、私は、これも結局「孤立評価」と変わらないと思います。)。再審制度が新証拠を要求している以上、これは一見正しい姿勢のように見えます。しかし、現実問題として、そんなに都合良く新証拠を発見できるわけではありません。このような考えは、再審実務に無頓着であるとともに、無辜の不処罰という再審制度と相容れません。新証拠の一つ一つは小さく見えても、それが集積され、全ての旧証拠と並べて総合的に検討すれば、確定審とは別の心証に至るかも知れない。ここに再審の意味があると考えます。

 ところで、今日の東京高裁は、一方で再審請求を棄却しておきながら、他方で袴田さんを収監させませんでした。東京高裁の考えによれば、袴田さんは、当然、死刑とされるべき人物なのですから、収監しないという判断自体、一貫した態度とは言えません。裁判官の自信のなさが現れているようにも見えます。もちろん、今回の取消決定自体がおかしい以上、私は、再審請求を棄却した以上、必ず収監すべきと言っているわけではありません。そんなに自信がなければ再審を開始して白黒つければ良いではないかということです。

 今回の東京高裁の裁判官が守ろうとしたものは何でしょうか。それは、おそらく裁判が確定したという価値そのものに過ぎません。易々と再審が開かれて判決が覆るようでは、紛争を終局的に解決するという裁判の価値が下がるかもしれない。そんなところでしょうか。

 しかし、誤りを謙虚に正す、すなわち再審無罪を言い渡す、あるいは正す機会を与える、すなわち再審を開くという潔さがあったほうが、むしろ裁判に対する信頼を得ることにつながると思います。裁判官にその潔さがなければ、再審だけは裁判所以外の民主的な第三者機関を作り、そこに委ねたほうがよいでしょう。裁判官が確定させた判決を裁判官が覆すという制度自体、どこか無理があるのだと思います。

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