犠牲者の「物語」は必要か

 御岳山噴火は多くの方が犠牲になり、大変痛ましい災害でした。御岳山は名古屋からもよく見える美しい山です。しかし、自然は美しいだけでなく、ときには残酷さを併せ持っています。今回の件で自然災害の恐ろしさをあらためて思い知らされました。

 ところで、御岳山噴火の報道では、犠牲者の実名だけでなく、犠牲者がどのような方だったのか、その詳しい「物語」を報道する番組やニュースが少なくありません。例えば、「○○さんは生前△△が趣味だった。」「□□さんは素直で感じの良い人だった。」といったエピソードや、犠牲者のブログやFacebookを転載して人となりを解説するような報道です。もちろん、このような報道に接すれば、人は「こんな幸せだった人が突然不幸に見舞われるなんて可哀想。人生ははかないものだ。」といった感想を抱き、悲しい気持ちになるものです。

 しかし、このような報道については、遺族に対する配慮が足りないのではないかという疑問があります。確かに、遭難事故の性質上、誰が事故にあったのかを居住地域と氏名で特定し、これを広く実名で報道する必要性はないとはいえません。しかし、それを超えて、犠牲者が生前どのような人だったのかを詳しく報道する必要は本当にあるのでしょうか。もちろん、中には犠牲者本人のことを世間に広く知ってもらいたいと希望する遺族もいるかも知れませんが、それでも基本的には、そっとしておくべきではないのでしょうか。

 報道と言っても、長くてせいぜい数週間程度のもので、その後は見向きもされません。しかし、遺族にとっては、喪失感と向き合うという意味において、本当に長いのはそれから先です。世間で散々大騒ぎされながら同情され、それと引き換えに実名と「物語」を晒された挙げ句、何もなかったように元の世界に戻るというプロセスは、遺族にとってかなり残酷ではないかと思います。特にインターネットの世界では、古い記事が長期間にわたって残り、おそらく本人も遺族も望まない形で晒され続けます。

 警察庁生活安全局地域課によると、平成25年中の山岳遭難による死者・行方不明者は320人だったそうです。しかし、そのほとんどは、おそらく新聞の社会面に最小限の記事しか載らなかったはずです。御岳山の犠牲者56人(11日現在)とそれ以外の遭難者との間に大きな差があるとは思えません。人間の好奇心に訴えかけるセンセーショナルな報道は、控えるべきです。

 普段、弁護士業務を通じて犯罪報道と人権について考える機会がよくあります。そのことと今回の災害報道が重なり合って見えたので、少し書いてみました。

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